日々巡らす思索の結果をブログという形式に昇華した事によってインターネット上に常駐し始めた、日付順に並ぶ一連の文章群。人工衛星の様に電子の海に浮かぶそれは筆者の頭中世界を大いに反映する。
Posted by 雪花美鴎 - 2011.03.20,Sun
街頭で募金活動をしている様に偽り、不正にお金を人々から貰い受ける輩がいる様である。断じて赦しておけない。腹立たしい話である。こんな時勢にも悪い奴というのはいるものだ。全く。どんな手段を使用してでも、お金を手に入れようとする。
私が聞いた話に依ると、ある偽募金者は集めたお金で、缶ジュースを買ったらしい。ちなみに集めた額は一万数千円だそうである。結構な額である。募金でこれだけ集めるには、何十人もの善意を要する。
罪悪感を覚えないのであろうか。「私には直接の支援を行う力は無いけれど、それでも役に立ちたい。こんな僅少なお金だが、それを大勢集めると、莫大な力を発揮するだろう。善意が結集し、日本に光が戻る。何重にも積層した鬱蒼たる暗い感情を払拭し、笑顔が戻る日が。」そうしてお金を託した人の思いを蹂躙するのは大罪である。刑事法云々ではなく、人間的問題である。
まぁ、その話はいい。留保しておく。同じ事を書いている人、同じ事を思っている人が沢山おられるだろう。だから、これ以上、今は書かない。
それよりも、現在書いておきたいことがある。世界に向けたご大層な文章ではない。私及びその身辺に関するものである。
私と家族は、西日本に旅行に行くことを計画している。明後日から、二泊三日を予定している。これは前々から決めていた事である。だが、ずっと前から決めていたという事実が、キャンセルをしなかった理由なのではない。
皆さんもご存じの通り、世の中にはその様な娯楽行事を自粛するムードが漂っている。多くの学校の卒業式、入学式は取りやめになったし、多くの者が、キャンセル料を払って、旅行を中止にしている。
それ故、私も何度も自分の中で、それでいいのか、それでいいのか、と反問を繰り返し、家族とも幾度も討議した。避難所で悲しみにくれ、厳しい生活をしている方々がいるというのに、旅行に行くなどというのは、申し分けなさ過ぎる、到底、旅行を楽しむ気分にはなれそうにもない。そんな思考が私の内部を席巻していた。では何故旅行に行く事にしたのか。大きく分断して、理由は二つある。
一つ目、経済的理由。現在、日本経済は地震且つ原発事故によって、大打撃を受けた。更に、大規模な消費活動が鎮静状態にあるため下がる一方だ。それに加え、停電。このままではいけない。回復しなければ。しかし未だ、兆しは見えてこない。だから、私は日本の為に西へ赴く。そして、財を消費する。日本のエンジンに潤滑油を塗る為に。私のその行動を煙たく思う人はいるであろうが、それは良いことだ、決して迷惑な行為ではない、悪い行為ではない、と私は確信している。
二つ目、心理的リセットを図る為。兆しは見えないが、恐らく四月には、多くの、学校、企業が再スタートを切るだろう。その様な時に、暗さを引きずっていてはいけない。未来に向けて邁進しなくてはならない。沢山の希望を作り出さなければいけない。
以上の理由によって、私の中で可決したという訳である。
私が聞いた話に依ると、ある偽募金者は集めたお金で、缶ジュースを買ったらしい。ちなみに集めた額は一万数千円だそうである。結構な額である。募金でこれだけ集めるには、何十人もの善意を要する。
罪悪感を覚えないのであろうか。「私には直接の支援を行う力は無いけれど、それでも役に立ちたい。こんな僅少なお金だが、それを大勢集めると、莫大な力を発揮するだろう。善意が結集し、日本に光が戻る。何重にも積層した鬱蒼たる暗い感情を払拭し、笑顔が戻る日が。」そうしてお金を託した人の思いを蹂躙するのは大罪である。刑事法云々ではなく、人間的問題である。
まぁ、その話はいい。留保しておく。同じ事を書いている人、同じ事を思っている人が沢山おられるだろう。だから、これ以上、今は書かない。
それよりも、現在書いておきたいことがある。世界に向けたご大層な文章ではない。私及びその身辺に関するものである。
私と家族は、西日本に旅行に行くことを計画している。明後日から、二泊三日を予定している。これは前々から決めていた事である。だが、ずっと前から決めていたという事実が、キャンセルをしなかった理由なのではない。
皆さんもご存じの通り、世の中にはその様な娯楽行事を自粛するムードが漂っている。多くの学校の卒業式、入学式は取りやめになったし、多くの者が、キャンセル料を払って、旅行を中止にしている。
それ故、私も何度も自分の中で、それでいいのか、それでいいのか、と反問を繰り返し、家族とも幾度も討議した。避難所で悲しみにくれ、厳しい生活をしている方々がいるというのに、旅行に行くなどというのは、申し分けなさ過ぎる、到底、旅行を楽しむ気分にはなれそうにもない。そんな思考が私の内部を席巻していた。では何故旅行に行く事にしたのか。大きく分断して、理由は二つある。
一つ目、経済的理由。現在、日本経済は地震且つ原発事故によって、大打撃を受けた。更に、大規模な消費活動が鎮静状態にあるため下がる一方だ。それに加え、停電。このままではいけない。回復しなければ。しかし未だ、兆しは見えてこない。だから、私は日本の為に西へ赴く。そして、財を消費する。日本のエンジンに潤滑油を塗る為に。私のその行動を煙たく思う人はいるであろうが、それは良いことだ、決して迷惑な行為ではない、悪い行為ではない、と私は確信している。
二つ目、心理的リセットを図る為。兆しは見えないが、恐らく四月には、多くの、学校、企業が再スタートを切るだろう。その様な時に、暗さを引きずっていてはいけない。未来に向けて邁進しなくてはならない。沢山の希望を作り出さなければいけない。
以上の理由によって、私の中で可決したという訳である。
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Posted by 雪花美鴎 - 2011.03.17,Thu
地震。凄まじい地震であった。私の自宅では、本棚が倒れ、書籍が部屋に散らばった。東京ですらこの有様である。恐ろしい。だが、停電しなかったのは不幸中の幸いであろうか。だから、テレビの報道を見ることが出来た。東北地方の津波の被害を私は見た。想像を遙かに越えている。現実の出来事ではないように錯覚してしまう。それ程凄惨に町が、村が、集落が損壊している。損壊などではない、大地による迫害である。人の手ではどうすることも出来ない。長い年月経て、人々の数多の努力が堆積した生活の営みの場がいともたやすく、押し流されている。
だが私にはどうすることも出来ない。画面上で連綿と繰り返される映像を見、日常生活を送ることしか。家の目の前の公園では子供達の遊んでいる楽しげな笑い声が聞こえてくる。ここは、対照的に平和な光景だ。しかし、私はその様には朗らかにはなれない。どんよりと鬱々とした気持ちに私は支配されている。被災地の方々が苦しみながら精一杯生きていらっしゃるのに、生活に困ることなく自堕落に、何の苦労も無しに毎日を平和に生きてしまって良いのだろうか。画面を見つめる度、強い罪悪感を噛みしめている。こちらと向こうには高く高く、非常に堅固な壁がある。もどかしい。何か役に立ちたい。けれど、自分の手は、声は、映像の向こうには届かない。
昨夜、首都圏の停電情報を調べた際、心強い言葉を読んだ。
「私達に出来るのは、普通に生きることが出来るという事の素晴らしさを実感しながら生きる事です。」
僅かに、心を固着していた糊の塊の様なものが剥がれた気がした。鉛を押し流し、温かい血が通い始めた。
そして、私は一応の結論を出した。暗く生きることは誰の為にもならない。これこそ、被災地の方々に失礼な事である。希望を持たなくてはいけない。ニュースで流される映像を見て悲しくなるだけではいけない。被災地の復興を強く祈り、信じるのだ。日常に感謝を捧げながら。
追記
「友達作戦」と題された、アメリカの支援にも私は感動した。上からの尊大ぶったものではなく、平行な、同じ地平に於ける友情の救いの手。あんなにも強大な国が、この小さな島を大切な友としてくれている。
時代は変わったのである。互いに憎みあう時代は終わった。戦争を越え、堅い絆が芽生えた。私の様な、戦争を体験していない者が、軽々しくその様に言ってはいけないのかもしれない。だが、これだけは断言出来る。
憎しみで人は救えない。憎しみで人を幸せには出来ない。
今、必要なのは、友情であり、愛である。
だが私にはどうすることも出来ない。画面上で連綿と繰り返される映像を見、日常生活を送ることしか。家の目の前の公園では子供達の遊んでいる楽しげな笑い声が聞こえてくる。ここは、対照的に平和な光景だ。しかし、私はその様には朗らかにはなれない。どんよりと鬱々とした気持ちに私は支配されている。被災地の方々が苦しみながら精一杯生きていらっしゃるのに、生活に困ることなく自堕落に、何の苦労も無しに毎日を平和に生きてしまって良いのだろうか。画面を見つめる度、強い罪悪感を噛みしめている。こちらと向こうには高く高く、非常に堅固な壁がある。もどかしい。何か役に立ちたい。けれど、自分の手は、声は、映像の向こうには届かない。
昨夜、首都圏の停電情報を調べた際、心強い言葉を読んだ。
「私達に出来るのは、普通に生きることが出来るという事の素晴らしさを実感しながら生きる事です。」
僅かに、心を固着していた糊の塊の様なものが剥がれた気がした。鉛を押し流し、温かい血が通い始めた。
そして、私は一応の結論を出した。暗く生きることは誰の為にもならない。これこそ、被災地の方々に失礼な事である。希望を持たなくてはいけない。ニュースで流される映像を見て悲しくなるだけではいけない。被災地の復興を強く祈り、信じるのだ。日常に感謝を捧げながら。
追記
「友達作戦」と題された、アメリカの支援にも私は感動した。上からの尊大ぶったものではなく、平行な、同じ地平に於ける友情の救いの手。あんなにも強大な国が、この小さな島を大切な友としてくれている。
時代は変わったのである。互いに憎みあう時代は終わった。戦争を越え、堅い絆が芽生えた。私の様な、戦争を体験していない者が、軽々しくその様に言ってはいけないのかもしれない。だが、これだけは断言出来る。
憎しみで人は救えない。憎しみで人を幸せには出来ない。
今、必要なのは、友情であり、愛である。
一刻も早く復興されることを、私は深く祈っている。
Posted by 雪花美鴎 - 2011.03.11,Fri
スマートフォンというものを購入した。様々な機能が付いている。付き過ぎている。これは到底、私の手に負える代物ではない。難解である。なかなか使いこなせない。
だが、便利といえば、便利だ。調べものをする際に、いちいちパソコンを起動する必要はなくなった。しかし、その便利さに応じて、矢鱈に手間が掛かるようになった。私は、購入してから、携帯電話としての機能に慣れるまでに、貴重な、十何時間もの時間を浪費した。全くの無駄であった。目も疲れた。乾いて乾いて、目がゴリゴリした。
その同じ時間の間に、何が出来ただろうか。本がかなり読めたであろう。読んでいたら、今より知性が育まれていたかもしれない。何しろ、私がしていた事と言えば、前傾姿勢を取りながら、つるつるした黒光りする板を持って、有益なことを何も考えず、突っついたり、撫で回したり、さすり回したりしていただけであるから。
つまり、私が言いたいのは(非常に逆説的であるが)便利すぎるものは、かえって不便であるということである。そんなに何もかも詰め込んじゃあいけない。鬱陶しいだけである。
しかし、何か新しいものが放つ魅力には、抗い難いものがある。多くの人が使っていると尚更欲しくなる。だから、買ってしまい、そして幻滅、後悔する。
何事も程々が良いのである。結局はそれに行き着く。最終真理なのかもしれない。財産も感情もそうである。お金は無いと困るが、ありすぎると、醜い欲がでて、堕落する。激しい感情は他者を傷つけ、自分も負傷してしまう。それと同様、付きすぎた機能は、機能の多さ故に、生活を便利にし、無駄な時間を短縮するという本来の意図を消失し、ただの時間消費機と化す。
星新一の小説に、この様なものがあった。家事ロボットを購入したはいいが、そのロボットというのが、厄介なもので、頻繁に充電やらメンテナンスやらをしなくては、正常に働かない。メンテナンスはお金が掛かるし、面倒である。だからといって、それを怠ると、失敗をやらかし、余計に仕事を作ってしまう。そうして、便利さと厄介さのどん詰まりに主人公は立たされる、という作品だ。正しく現代の状況を描いていると言えるだろう。
便利過ぎる製品のややこしい設定に時間を奪われ、活動時間が省略された脳髄が退廃していく。困ったものだ。
Posted by 雪花美鴎 - 2011.02.03,Thu
さて何を書こうか。明確な内容は浮かんでいない。しかし何か書きたい。そんな意識がある。
私は最近、カントの『純粋理性批判』を読んでいる。中山元さん訳の、光文社文庫のものである。この本は難しい。だが、面白い。考えることの面白さに、私は気付いた。そこで、私は考えてみた。哲学について。
哲学の意味とは何であろうか。哲学とは、純粋に考える事の学問である。それ故、すぐに役に立つような実利性もなければ、後になってから、直接役に立つかどうかも分からない。倫理学の系統であれば、なにか、世の中を良くするために、役に立ちそうである。しかし、空間や時間について思索を巡らすのは、何の意味があるのか。
直接な意味などない。当り前である。日常生活の何の役に立とうか。でも、面白い。深く深く考え、奥へ奥へと突き進んで行くのは、楽しい。宝探しの様である。確かにそうだ。哲学は、真理という宝を探し求めている。
宝には、金銭的価値を除いて、日常的な価値など無い。宝があるから、日々の生活が楽になったとか、楽しくなったとか、そういうことは起こり得ない。けれど、ただただ欲しいと思う。手に入れたいと思う。そして、それを獲得しようと、躍起になって、掘ったり探したりするのは、非常に疲れるが、至極楽しい。
哲学とはそういうものではないだろうか。困難だが、楽しいものである。
私は最近、カントの『純粋理性批判』を読んでいる。中山元さん訳の、光文社文庫のものである。この本は難しい。だが、面白い。考えることの面白さに、私は気付いた。そこで、私は考えてみた。哲学について。
哲学の意味とは何であろうか。哲学とは、純粋に考える事の学問である。それ故、すぐに役に立つような実利性もなければ、後になってから、直接役に立つかどうかも分からない。倫理学の系統であれば、なにか、世の中を良くするために、役に立ちそうである。しかし、空間や時間について思索を巡らすのは、何の意味があるのか。
直接な意味などない。当り前である。日常生活の何の役に立とうか。でも、面白い。深く深く考え、奥へ奥へと突き進んで行くのは、楽しい。宝探しの様である。確かにそうだ。哲学は、真理という宝を探し求めている。
宝には、金銭的価値を除いて、日常的な価値など無い。宝があるから、日々の生活が楽になったとか、楽しくなったとか、そういうことは起こり得ない。けれど、ただただ欲しいと思う。手に入れたいと思う。そして、それを獲得しようと、躍起になって、掘ったり探したりするのは、非常に疲れるが、至極楽しい。
哲学とはそういうものではないだろうか。困難だが、楽しいものである。
Posted by 雪花美鴎 - 2011.01.18,Tue
タイガーマスク運動の一連の世情に関し、最近私は感じている。何かおかしい、ずれているのではないか。確かに最初の頃の運動は、素晴らしいものであった。私もそれを見て、心が洗われるような思いをした。感動したのだ。純粋な、人が持っている善なるものの存在を垣間見た気がした。
しかし、最近のその運動には少々疑問を持っている。行為者はマスコミに取り上げられ、影のヒーローとして、束の間の栄光を得る。そんな快楽を得るために彼らはしているのではないか、とすら思えてしまう。本心から寄贈している人も中には大勢いらっしゃるであろう。しかし、マスコミの煽りとそのような間違った寄贈者が合わさってしまうことで、彼らの心は埋もれてしまっている。残念なことだ。
しかし、最近のその運動には少々疑問を持っている。行為者はマスコミに取り上げられ、影のヒーローとして、束の間の栄光を得る。そんな快楽を得るために彼らはしているのではないか、とすら思えてしまう。本心から寄贈している人も中には大勢いらっしゃるであろう。しかし、マスコミの煽りとそのような間違った寄贈者が合わさってしまうことで、彼らの心は埋もれてしまっている。残念なことだ。
Posted by 雪花美鴎 - 2011.01.17,Mon
絵を鑑賞するのは好きだが、描くのは嫌いだ。いや嫌いというのは不正確である。的を得ていない。苦手なのである。出来ないのだ。今迄学校の美術課題で描いたことは何度もあるが、思うようには何時も描けず、常に評価は最悪。
それでも絵を観るのは好きである。文学と音楽の次に好きである。
そして、この前はゴッホ展に行った。なかなか情緒溢れる作品が立ち並び、良い芸術的体験をした。唯、それらの絵が理解できた、という訳ではない。正直な話、全くと言っても良い位、分からなかった。しかし、何か絵にとりついている画家の情念の様なものを少し感じ取れた気がする。特にあの有名な、ゴッホの自画像を観た時だ。私はその絵の前に立って、真正面から対峙した。強烈なタッチでそれは描かれていた。まるで書道を繰り返した様だ。とても荒々しい。けれども非常に整っている。荒々しさが全て同一の方向に整然と向かっているからである。絵に関して何の知識もない私の単なる憶測であるが、この作品は、一時の感情の赴くそのままに、筆を動かし制作したものではないだろうか。それには、一つのものに向かうひたむきな情の高ぶりそのものが表れていた。
そういえば小林秀雄は言っていた。「芸術は分かるものではない。感じるものだ。」と。それならば、私は正しく芸術を鑑賞していたのかもしれない。
さて、話はがらりと変わる。
私の高校生活はもうじき終わる。また状態的には卒業しているのと大差ない。事実上、学校に行くのは残すところ後二日程である。卒業式とその予行練習。三月だ。だから、今は休みである。
それにしても、長かった。中高一貫校であったので、同じ学校に六年間も通っていた事になる。本当に様々な事があった。中学三年間はサボりながらも、なんとかテニス部で精進していた。高校時代はバンド活動をしていた事が強く印象に残っている。その中で、何もかもが上手くいくはずはなく、何度も嫌な経験をしたし、強烈な挫折を味わい、余りの屈辱感に精神を挫かれそうになったりもした。それでも、私は良い中学高校生活を送ったと
確信している。どのような事も、今の私を構成するかけがえのない要素だ。どんな些細なものでも、それを省いてしまったら、今の私にはならなかっただろう。本当に良い学校生活を送った。
それでも絵を観るのは好きである。文学と音楽の次に好きである。
そして、この前はゴッホ展に行った。なかなか情緒溢れる作品が立ち並び、良い芸術的体験をした。唯、それらの絵が理解できた、という訳ではない。正直な話、全くと言っても良い位、分からなかった。しかし、何か絵にとりついている画家の情念の様なものを少し感じ取れた気がする。特にあの有名な、ゴッホの自画像を観た時だ。私はその絵の前に立って、真正面から対峙した。強烈なタッチでそれは描かれていた。まるで書道を繰り返した様だ。とても荒々しい。けれども非常に整っている。荒々しさが全て同一の方向に整然と向かっているからである。絵に関して何の知識もない私の単なる憶測であるが、この作品は、一時の感情の赴くそのままに、筆を動かし制作したものではないだろうか。それには、一つのものに向かうひたむきな情の高ぶりそのものが表れていた。
そういえば小林秀雄は言っていた。「芸術は分かるものではない。感じるものだ。」と。それならば、私は正しく芸術を鑑賞していたのかもしれない。
さて、話はがらりと変わる。
私の高校生活はもうじき終わる。また状態的には卒業しているのと大差ない。事実上、学校に行くのは残すところ後二日程である。卒業式とその予行練習。三月だ。だから、今は休みである。
それにしても、長かった。中高一貫校であったので、同じ学校に六年間も通っていた事になる。本当に様々な事があった。中学三年間はサボりながらも、なんとかテニス部で精進していた。高校時代はバンド活動をしていた事が強く印象に残っている。その中で、何もかもが上手くいくはずはなく、何度も嫌な経験をしたし、強烈な挫折を味わい、余りの屈辱感に精神を挫かれそうになったりもした。それでも、私は良い中学高校生活を送ったと
確信している。どのような事も、今の私を構成するかけがえのない要素だ。どんな些細なものでも、それを省いてしまったら、今の私にはならなかっただろう。本当に良い学校生活を送った。
Posted by 雪花美鴎 - 2011.01.16,Sun
遅くなったが。
明けましておめでとうございます。
今年も良い年になるよう願っている。
ところで、早速私は不運に見舞われてしまった。霜焼けになったのである。不注意がいけなかった。これだから霜焼けは油断ならない。
私は例年通り、近所の神社へ初詣でに行った。余りの寒さに凍えながら、参拝所に至る石段に並んで待っていた。空が綺麗だ。透明度の高い美しさ、と言おうか、澄んだ色をしている。薄い雲も厚い雲も皆透き通っている。じっと見上げていると、吸い込まれそうになる。雲の粒子の狭間に取り込まれそうになる。
そうしている内に列が進み、手を清める場所の前に行き着いた。何とも言えない、清々しい張り詰めた感じが漂っている。その場から清浄感が放出している。それに私は引き寄せられた。それがいけなかったのである。冷っとした水をなみなみと柄杓に注ぎ、両手を濡らした。
そのせいで今、両手の指はぶくぶくとミミズの様に腫れている。指は十分に曲げる事が出来ず、常に痛痒い。また、温かくなると痒みが強くなり、反対に、寒くなると痛くなる。厄介なものだ。
今年はならないようにと思っていたのに…。
さて、漸く、長い苦行に於いて、一区切りがついた。
センター試験が終焉したのである。長かった。それにしても長かった。体感的に永遠にも等しい程だ。それに非常に疲れた。だがもう二度と受けないであろうから、貴重な良い経験だったと言えなくはないかもしれない。あれ程の悪環境の中、時間とせめぎあいながら、膨大な問題と格闘するなど、他では滅多に体験出来ない事だろう。椅子が固く、机との距離が狭かった。人が多く、空気が澱んでいた。その為、私は痛む尻と硬直する足を意識から可能極限まで滅却する事に努めつつ、問題を解いた。その結果、なかなかの手応えを感じた。未だ自己採点をしていないのであるから、委細は知る術もないが、実感としては、確かに出来た。少し未来が見えた気がする。
閑話休題。
今欲しいものがある。電子メモである。メーカーは知らないが、それが欲しい。折り畳みのキーボードが付いていて、それで文章を綴る事が出来、それをパソコンに転送出来る様だ。これさえあれば事実上、何時でも何処でも、地理的制約を殆ど受ける事なく、尚且つ、思考と打つ速度との差異を最小にまで縮める事が可能になる。私は携帯電話の文字を入力するシステムの余りの不便さに常に辟易している。うんざりだ。どんなに良いものが頭に浮かんでも、これでは汲み出す以前に、思考の波は衰退し、静まっていまう。
明けましておめでとうございます。
今年も良い年になるよう願っている。
ところで、早速私は不運に見舞われてしまった。霜焼けになったのである。不注意がいけなかった。これだから霜焼けは油断ならない。
私は例年通り、近所の神社へ初詣でに行った。余りの寒さに凍えながら、参拝所に至る石段に並んで待っていた。空が綺麗だ。透明度の高い美しさ、と言おうか、澄んだ色をしている。薄い雲も厚い雲も皆透き通っている。じっと見上げていると、吸い込まれそうになる。雲の粒子の狭間に取り込まれそうになる。
そうしている内に列が進み、手を清める場所の前に行き着いた。何とも言えない、清々しい張り詰めた感じが漂っている。その場から清浄感が放出している。それに私は引き寄せられた。それがいけなかったのである。冷っとした水をなみなみと柄杓に注ぎ、両手を濡らした。
そのせいで今、両手の指はぶくぶくとミミズの様に腫れている。指は十分に曲げる事が出来ず、常に痛痒い。また、温かくなると痒みが強くなり、反対に、寒くなると痛くなる。厄介なものだ。
今年はならないようにと思っていたのに…。
さて、漸く、長い苦行に於いて、一区切りがついた。
センター試験が終焉したのである。長かった。それにしても長かった。体感的に永遠にも等しい程だ。それに非常に疲れた。だがもう二度と受けないであろうから、貴重な良い経験だったと言えなくはないかもしれない。あれ程の悪環境の中、時間とせめぎあいながら、膨大な問題と格闘するなど、他では滅多に体験出来ない事だろう。椅子が固く、机との距離が狭かった。人が多く、空気が澱んでいた。その為、私は痛む尻と硬直する足を意識から可能極限まで滅却する事に努めつつ、問題を解いた。その結果、なかなかの手応えを感じた。未だ自己採点をしていないのであるから、委細は知る術もないが、実感としては、確かに出来た。少し未来が見えた気がする。
閑話休題。
今欲しいものがある。電子メモである。メーカーは知らないが、それが欲しい。折り畳みのキーボードが付いていて、それで文章を綴る事が出来、それをパソコンに転送出来る様だ。これさえあれば事実上、何時でも何処でも、地理的制約を殆ど受ける事なく、尚且つ、思考と打つ速度との差異を最小にまで縮める事が可能になる。私は携帯電話の文字を入力するシステムの余りの不便さに常に辟易している。うんざりだ。どんなに良いものが頭に浮かんでも、これでは汲み出す以前に、思考の波は衰退し、静まっていまう。
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日付という機能を付され、綺麗に配列された数字の序列
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