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日々巡らす思索の結果をブログという形式に昇華した事によってインターネット上に常駐し始めた、日付順に並ぶ一連の文章群。人工衛星の様に電子の海に浮かぶそれは筆者の頭中世界を大いに反映する。
Posted by - 2024.05.06,Mon
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Posted by 雪花美鴎 - 2011.09.15,Thu
 昨日は病院に行った。このところ、殆ど毎日のように自転車に乗っている気がする。代わり映えのしない景色にいい加減飽きてきた。私の街は坂が多く、ペダルを漕ぐのに少々骨が折れる。交通量の多さもあって、風景を楽しむサイクリングという訳にも行かず、無機物で組み上げられた胎内を走っているようなつまらなさの為、嫌気が差すのも道理ではないだろうか。
 そう、私は喘息持ちである。数ヶ月前、急に発作が起こり――これまで風邪をひいてもせき込むことが少なかったにも拘わらず――定期的に必要である薬の処方を受けに行ったという次第である。診察まで、運が悪かったのか、非常に待ちに待たされた。病院の待合室というのは、何らかの病気を抱えた人が集まる場所であり、覇気がなく、どんよりと特に時間が濁っている。同じ時間と雖も、基調となる場の雰囲気によって体感時間は変わるものだ。薬品の緊張を誘う刺激臭と共に、体に流れ溶け込む鉛のような時間は、眠気があるのに眠れないような、体は眠っていて意識のみが地滑走をする状態を呈さしめる。――閉鎖的過ぎたあの場所で、しかし縛られた思索が展開する事もなく、最終的に眠り込んでしまったのであるけれども。
 快晴、垢抜けた空――窓の外が眩しい。強烈なコントラストを成して、日陰との間に軋轢が生じる。これは自分が――極軽度であり、これといった症状はないのだが――やはり病んでいる、という実感を定着させるので嫌なものである。通院するのは、雨が今にも降りそうな、黒灰色が覆う不健康な空の下が良い。
 そうして思うのが、自分が如何に無為の生活をしているかである。本日の如く、医者に会うのもそうなのであるが、多忙、活動的な有名人の日記を読むと――松井玲奈さんのような――その実感を強くする。
 何か力に私もなりたいと常々思っているのであるけれど、私は余りに無力である事に気が付いた。世の中は物凄い力で回っていて、圧倒されるばかりだ。どのような人でも精一杯生きていて――私がこのように一種の創作活動をしているのがまるで馬鹿馬鹿しくなる程。結局何の役にも立っていないじゃないか。人を直接救うには、ひ弱な体では支えきれず、寧ろ救う側の人間に助けられる事になりそうで、しかしそうかと言って、私の頭には万人を救える賢い策が思いつくにたるキャパシティーのあろう筈もなく、ああでもない、こうでもないとひっきりなしに下らない考えを次々に拵えては放り投げ、を繰り返し。詩では駄目なのかもしれない。何しろ読む人はどのような状況であれ、その時は完全に一人なのだから。――意識は共有できない、読んで生まれた感情さえも。恐らくこうだろうと推し量る事しか無理なのである。
 仕方あるまい――生まれた時も一人、死ぬ時も一人――本来的に人間は孤独なのだ。何が出来るのか。孤独を癒し、希望を灯したい。
 確かに思考の共有は出来ないかもしれない。しかし、笑顔――笑いの共感は可能であると信じている。子供達の無邪気な笑顔を見て、心温まらない人はいないだろう。
 そんな思いで詩を書いた。これは自己満足かもしれない。何より自分が救いを得る為なのかもしれない。けれども読んで欲しい。
 
 
 『幸福な訪れ』
 
可愛い声が風に乗り
 
街を越え、川を渡り
 
鳥の背中を押しながら
 
虫にからかいをけしかけ
 
寂れた荒れ地に生気が戻る
 
 
不毛な戦場の真中を
 
子供達が笑いながら駆けていく
 
上下に青い、空と海
 
真っ赤に燃える太陽を挟み
 
そこから左右に言葉が広がり
 
愛と自由を表象する、歓喜の旗を振りかざし
 
子供達は笑いながら駆けていく

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Posted by 雪花美鴎 - 2011.09.11,Sun
甘い砂糖菓子が踊る踊る

手を広げ、喜びに満ちた幸せな表情をたたえて

――液化寸前のひととき

 私は予てより食べる事を欲していた、私の行動圏内では余り目にすることのないコンビニ製の珍しい菓子パンを、つい先日購入する機会を得た。SKE48の松井玲奈さんが絶賛していた、外はカリカリで中はフワフワ、硬軟の絶妙なバランスを保持しているというメロンパン――サークルKサンクスでしか売っていないらしい。それはどれ程美味しいものなのか。世の中に数多くあるメロンパンの中で一番美味しいと言うからには素晴らしいに違いない。それを聞いて、語る彼女の嬉々とした表情を見て、私は実際に食べてみたいと思っていたのである。――コンビニのパンは余り好きではない事に発する懸念はあったけれども。その日、久々に街へ買い物に出かけた理由の半分はそれであると言えた。以下はその一日を小説風に書いたものである。

 街は賑わっていた。入るとすぐに、陽光に散らされた話し声が四方から私を取り巻く。暑気に怖じることなく放たれるその勢いは強い。私の知らないところでも街は確実に動いているのだ。流れに乗り遅れた者の如く、私は取り残された思いをする。ハレの空気に触れ、慢性的に硬直した心がどよめいた。
 総体としての街は以前と比べ、明らかな違いはないように見える。だが、細かな――店の様子、人々の雰囲気は変動している。二年前程から定期的に通っている、かなり気に入った店があるのであるが、やはりそこも変わっていた。遊べる本屋をコンセプトにしたその店は一般的な本屋とは異なり、一風変わった書籍を置いていて、行く毎に新たな発見をする事が出来る。私はそこでは詩集を買った。
 そうして、他の買い物を済ませ、サンクスの店内に入ると、すぐにパッケージの様子から探し出す事が出来た。また、流石にそれのみでは食べている最中に喉が乾くだろうと考え、ブラックコーヒーを共に購入した。
 浮き立つ心で袋を開ける。プラスチックを挟まず、直接に見ると視覚的重量が実際の重さより案外大きく、表面を覆う強張った甲殻はゴワゴワとうねり、隆起を繰り返していて険しい。齧る前から、見た目、手に当たる質感より、サクサクとしているであろうことが察せられた。
 一口食べる。口に当たるのはやはり岩のような印象で、前歯が亀裂を広げるようにして齧った小さな欠片を奥歯で噛む。硬さを残した砂糖の粒とクッキーのような生地が軽い音を立てて、砕け溶けていく。完全に混じり合うことはない。だからと言って、互いに主張しあい不協和音を鳴らすのでもない。揺らめく甘さと舌触り――緩急をつけて渦巻いて口を愉しませる。そこに溶かしバターのような、油脂の香ばしさが広がっていく。――贅沢な味だ。焼きたてを提供するという面では、劣らざるを得ないコンビニのパン業界で、内側からほのかに漂うよってくるよう生地に使用する油に工夫を凝らし、焼きたての新鮮な印象を残すのは非常に画期的である。――満足感を増す為に、外側に強烈な香料をまぶすという、情報過多とも言える、街角のギラギラした広告灯のようなやり方をとりがちであるのに。
 殻を破り、二口目からは白いパン部分が混じるようになる。それは内部に適度な空気を宿した柔らかい印象であった。鉱物的な外殻とそれが口の中で包みあい混合する様が丁度良い具合である。
 しかし、前歯で崩し奥歯で砕くのを繰り返している内、次第に飽きを覚えてきた。私は甘党であり、甘さに対する耐性は十分に備えていると自負しているのであるが、画一的な、全体の、締りのない甘ったるさと、それを上回る甘さの、所々混在する砂糖の白い塊には少々辟易してくる。気だるい甘味が口に染みこんで頭がぼんやりする。確かにバランスが取れていて、製品としての完成度は高いように思うが、その均衡を保っている水準がもう少しあっさりとした味に落ち着いている方が良いのではないだろうか。
 甘さは中世貴族の豪奢な退廃を想起させる。頭の怠さはそこに起因するのかもしれない。私はコーヒーを流し込んだ。黒色の整然とした刺激は救いとなって口を潤した。浅焙煎の酸味がまどろこしさを一掃し、秩序を与えた。
 するとどうであろうか。中和が起こったようである。コーヒーの苦味と上手い具合に調和したのであった。
 満足感の内に私は食べ終えた。



 感想としては、甘いが、確かに絶賛されるだけの事はあり、美味しいパンであった。
 
 

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Posted by 雪花美鴎 - 2011.06.23,Thu
            ジムノペディ―さりげなく、部屋の片隅に置かれた家具の様な、自然な曲。時間の様に静かに流れる。主観的な刺のない種類に於ける、一つの芸術的完成の極地であると言えるだろう。目まぐるしい速度、豪華絢爛たる鮮やかな色彩といった動的要素を削ぎ落した結果残った、小規模で地味な、けれど美しい、地質学的年月の澱が一つに凝縮し、固まった、巨大な感覚的質量を持つ宝石の様な纏まりそれのみで完結した一塊。

アンモナイトの化石は暖色に満ちた、静寂が染み込んだ所に置かれると、そこにあるというだけで、物言わぬ魅力を放つ。何とも言えぬ、深い、思索的な雰囲気を全体に醸す様になる。空間内部を占める感情を徐々に侵食し、作り変える程の影響力を備えている。しかし、それは支配者的な、有無を言わさぬ一方的、強制的なものではなく、心の底での同意を伴う、肯定的不随意変化である―それは生きる事と深い場所で何処か繋がっている。

 

素晴らしい曲です。未聴の方は是非一度聴いて見て下さい。特に何か作業をしながら聴くのが、より自然音の様に、空気の様に聴く事が出来るので、曲の雰囲気を味わい易いと思います。今日みたく、雨の夜に、電灯を消し、外の朧気な淡い光を感じつつ、水が地面や窓硝子をそっと叩く音と共に、小さな音量で聴くのも趣があるでしょう。

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Posted by 雪花美鴎 - 2011.05.29,Sun
  静寂極まった木々の中に冷たい蒸気が満ちる。獣の荒い息づかい、鳥の囀り、虫が立てる金属の歯軋りの様な音、それら全てが未知の意思疎通を行い共謀して、タイミングを計ったかの如く一斉に止む。雨が降る瞬間だ。木の葉が醸す甘い芳香は雨に洗われ、消えて無くなり、代わりに地面から霧の様に放たれる土の匂いが辺りを覆う。それは徐々に広がりながら、密度を増していく。柔らかな葉が積み重なる上空の層に依って弱められた水滴が可視的な速度で緩やかに、小さな落下傘の様に降下する。
 一定の律動に沿った音が占拠した森林の中を闊歩する。足が湿った地面を圧縮し、数多の微生物、名の知れぬ有機体を潰す音は、同じく雨に流され、森の色彩と同化し、何処か意識、感覚の及ばぬ先へ消えていく。雨自体の音と合わさり、私が起こす活動は森の中では何も知覚出来ない。唯、生きているという実感のみがそこに存在する。意識だけが存在し、時折まばたきをする。
 梅雨の季節が来たのである。五月の暑気が鎮静し、涼しさが宙に漂っている。望見する風景には灰色の膜が掛かり、夜明けの目覚めに感ずる様な暗鬱たる情緒が木立、花々、人間の営為に染みこんで、彩りの音量を下げ、減衰化させ、大気と調和させる。境界が薄れ、個々の形態が減数分裂し、一つの印象―非情熱的で暗く冷たい諦念となって逍遥し、身を取り巻く。あらゆる動植物の心情、哲学の根底に堆積した集合無意識を構成する諦めの思想。自由意志を自ら自然法則という神へ捧げ、選択権を放擲し、永続的な流れに乗り、朽果の海へと、川底の石に引っ掛かる事も、葦を掴む事もせず、只々身を任せる。
 寂寥に満ちた静かな時である。また、時の流れは断片的で、何かが詰まった様にひどく遅い。ゆったりとした悲しげな季節。しかし、私はこの様な幽遠の世界を愛しく思う。電子文明とはかけ離れた、純粋の音、純粋の景色を感ずることが出来る。
 私の心は厭世的に創られた様で、個々の人間が厚い透明な皮膜に包まれ、必然的に距離が開くこの孤独な時期に、無上の癒しを覚える。不可視の詩情が入り込んで来る様で、心地良さすら感じる。閑雅な、人の喧騒とは無縁のものだ。心にもない無理矢理な御世辞も、嗜虐的な侮辱もそこにはない。真夜中の、時が停止したかの様な平和が常時存在する。

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Posted by 雪花美鴎 - 2011.05.08,Sun
  先月、東京国立近代美術館に行った。物凄い暴風雨であった。ビル風と合わさり、強烈な力となって向かい来る風に耐えながら、傘を盾に、戦地に赴く兵士の様な心持ちで、憤然、岡本太郎の絵画を見んと、黒色の布地に覆い隠された、不可視の道を歩んだ。入った際、まず驚いたのは人の多さである。ひしめき合って、一歩進む度、誰かの肩とぶつからなければ、通過出来ない程であった。一種、美術館と混雑という、通常、同時存在はしない事象の共存になにやら、訳の分からぬ異常を感じた。近年、岡本太郎は若者に人気がある、と言われているが、その為かもしれない。
 展覧会場に入ると、通路の両側に陳列された奇怪なオブジェの群に迎えられる。薄暗い部屋で、土台からのか細い照明によって、浮かび上がる、一見すると、愛嬌のある、子供向けアニメーションのキャラクターに似たものが並んでいた。しかし、すぐさまその印象は払拭される。これは、可愛らしいものではない。不気味な空虚。穴で出来た大きな、口程もある目からは、無感情という感情が流れ出ていた。嬉しそうにはしゃいで、走り回る子供が時折見せる圧倒的な無表情。遊びに飽きたなどという心情の表明ではなく、自身の虚無を映し出す、何にも染まらない、真っ白で病的な表情。「トラウマになりそう」そのような呟きが何処からか聞こえてきた。確かに、悪夢に出てきそうである。その様な気味の悪いものを前にした時、人は目を背けたくなるのが普通である。だが、彼の作品にはずっと見ていたく思わせられる何かがある。怖いもの見たさであろうか。いや、そうではない。滑稽さというものもある。こっちまで笑いだしてしまいそうな。そして何よりも、それ程に強い、目に蒸着して離れない、インパクトがある。それは岡本太郎特有の不思議なものだ。
 次の部屋には彼の初期の作品が展示されていた。『痛ましき腕』が印象的であった。光源に当てられ強調された腕からは皮膚がスプライト状に切り取られ、露わになった毒々しいピンク色の肉に血が滲み出ている。腕の痛みを必死に堪えているのか、前面に拳を付き出し強く握り締めている。表情は、日陰で異常成長した巨大な花の様に頭に咲いたリボンによって陰鬱に隠されていて、伺い知る事は出来ない。ひょっとしたら、笑っているのかもしれない。狂気の笑み、嗤い。常軌の逸脱の果てに訪れる、感覚を超えた快楽、絶頂。感覚は許容量を超過すると溢れ出し、新たなものへ昇華し、ハイになるという。彼は、私の想像では捉えられないものを味わっているのであろうか。だが、それが全体として何を表しているのか、私には分からない。理解出来なかった。その絵は解釈を、強烈な呪術の様ですらある思念を以て拒絶する。しかし、そもそも意味などないのかもしれない。その点入り口の無い建造物にも似ている。
 
 この小篇はこの後延々と順番に、私が感銘を受けた作品について綴っていく予定であったのであるが、それが不可能であることがここまで書いている内に次第に露呈した。見てから大分時が経ってしまった為、その時の思考や感情を余り覚えていないのである。パンフレットを見ながら、無理矢理に文章を捻り絞り、書くことは可能であろうが、それは非常に苦しい作業である。そして何より、頗るつまらない。意味のある行いだとも到底思えない。したがって、ここで中断することにした。その時の新鮮な感情が、凍りついた雪巌を砕き、激流となって流れる様に、今を破り現出するようになった暁には再開し、この続きを綴っていこうと思う。

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Posted by 雪花美鴎 - 2011.04.07,Thu
 空の青。透き通るような色には獰猛な残酷性がある。今か今かと獣の様に、目をぎろぎろ光らせ待ちかまえている。けれども空は賢いから、捕食した獲物の臭いを極力隠蔽している。青空に美麗さを感じる時があるのはその為である。何も無く、純粋な水の様である時には、逆に清々しさすら感じさせる。そして、いつも侘びしさが漂い、夕暮れになると、哀愁味すら纏っている。
 
 空は残酷だ。生臭い肉を一切食らうことなく、思想が凝縮された魂だけを食すとは。美食家と言っても良いかもしれない。旨いところだけを、何も調理せず、踊り食い。空にとって、白子の様なものなのだろうか。
 
 透けた白。内蔵がゼリー思わせる身の中に、駅弁の様に詰まっている。無理矢理、第三者の手によって詰め込まれたかの様な印象を受ける。白子は胃の中で体を震わせ、最後の一瞬まで、生を謳歌しようとする。うねり、もがき、くねらせる。互いに体をぶつけ、小さな泡立つ様な、粘液の跳ねる音を立てる。耳に心地よい。軽快な音である。
 
 それは、食べる行為の本来の意味を思い出させる。生の略奪。そして、生の吸収。今生き、こうして考えている。それまでに様々な過程があるにしろ、これは他生物の生きるエネルギーが元となっている。電池の様なものかもしれない。充電し、消費する、というサイクルの繰り返し。充電地は劣化する。長年の充放電、過酷な使用によって、十分な機能を果たさなくなってゆく。
 
 そうして、最期には、空に飲み込まれ、地上からは見ることの出来ない、狭苦しい臓物の中に押し込まれる。中は悲嘆と諦念が合成された、無言の慟哭に満たされている。自意識がゆっくりと白いもやの様に溶けだしているのを、動けずに傍観している。その様子はどんなに高性能な望遠鏡を以てしても、眺める事は出来ぬし、見つける事すら出来やしない。だから地上の者は、別の場所で幸せに暮らしているだろう。こう思うことで精一杯である。どうする事も不可能なのである。見ることも助けることも。
 
 雲一つ無い、空を見上げるとたまらず不安になる。自分の存在基盤の確かさが途端に薄れる。同じ場所にいるにも関わらず、空気が浅薄になった様に感じ、息が苦しくなる。周りに何も無いというのは、孤独である。完全に解放された世界というのは、コンクリートで閉じられた狭苦しい地下の個室と何ら変わらないのかもしれない。
 
 無色の絶望。空から心に入り込んでくる絶望には色すらも付いていない。しかし、無色という色があるのかどうか。人は無色というものに色彩を感じる事が出来るのであろうか。透明では決してない。何も無いことでもない。虚無。重い存在感のある無である。壁の様だ。静かな威圧感を全面に放射している。
 
 快晴の下で感じたのは、昇天の恐怖だったのかもしれない。その恐怖とは―子鹿の感ずる獅子の接近、捕食者に対する本能的なものだったのだろう。
 

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Posted by 雪花美鴎 - 2011.04.02,Sat
 先日ポメラを買った。電子メモである。小さなモノクロ画面に折り畳み式のキーボードが付いている。キーボードのサイズは殆どパソコンのと変わらない。それだけだ。メモ帳以外の機能は付いていない。それならばパソコンで良いじゃないか。いろいろな機能が付いていて便利ではないか。その様な疑問の声が聞こえてそうである。

だが以前、述べたとおり、度が過ぎるとかえって逆効果である。便利すぎるものは不便だ。つまり、メモ帳として使うには、ポメラの方が便利だ。

パソコンに於いて、メモ帳に文字を記録したく思った時(恋の芽生えの様なものである。書きたいという欲求と書くものが共在するという現象は、何時でもそれはとっさに起こる。)、何処にあるのかも忘失した電源ケーブルを何処からか探しだし(さながら気を惹くためのプレゼントの様である)、それから、長い長い、途轍もなく長い、地平線の様な、パスワードを、恋文を綴る様に入力し、じりじりと歯軋りする(どうしようかひたすら思案に暮れているのである)パソコンを前に、起動が終わるまでの時間をひたすら耐え忍ばなければならない。そして、時たま、パソコンの機嫌が悪い時は(つまり、更新プログラムのある時である)更なる時間、待ち続けなければならない。男は待たされる生き物である。悲しい生き物だ。こうして、ようやくにして、起動し終えた時には、大抵書く事を忘れているか、書きたいという思いは薄れてしまっている。(萎え、というやつかもしれない)これではどうしようもない。何事も書きたい時に書かねばならない。書くものが生まれた、と思った時に書くべきなのである。その様な意味では、釣りに近いのかもしれない。

ポメラの起動は早い。すぐに応えてくれる。何しろ、折り畳まれたキーボードを開いて、電源ボタンを押すと、一、二秒で入力可能な状態になるのであるから。この早さであるなら、思いついた思考を新鮮な状態で保存するのに十分である。

先程書いたように、ポメラには文字を入力し保存するという機能しか付いていない。多機能を求める人にとってそれは、至極つまらない代物であろう。だが、純粋にものを書きたい人にとって、これ以上望めない様な、素晴らしい機械であると言えよう。いや機械といっては正しくないかもしれない。敢えて、道具と言おう。

よく言われるように、デザインはそんなに良くはない。ダサいという声もしばしば、ネット上に於いて耳にする。私も少々同意する。だが、全く気にはしていない。この無骨でいて無機質な、それでいて冷たくないデザインを寧ろ私は愛している。

これは余談であるが、この文章はポメラで書いたものである。それをパソコンに移し、ブログへ投稿したという訳である。 

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Calender
日付という機能を付され、綺麗に配列された数字の序列
04 2024/05 06
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