日々巡らす思索の結果をブログという形式に昇華した事によってインターネット上に常駐し始めた、日付順に並ぶ一連の文章群。人工衛星の様に電子の海に浮かぶそれは筆者の頭中世界を大いに反映する。
Posted by 雪花美鴎 - 2009.12.19,Sat
この作品はただの物語ではなく、本質は何が善で何が悪なのか、また罰は罪を犯した人に対し、人が与えるべきものか、というところに置かれている。
主人公ラスコーリニコフは一つの悪事は百の善行によって償われ、悪人を殺しても罪にならないという自信の思想から、高利貸しを殺そうと考え、試みたが、その場に居合わせた高利貸しの娘までも殺してしまう。
そして、ラスコーリニコフは悪人ではないその娘まで殺してしまったことを悔やみ良心の呵責に囚われる事となる。それにより気を病んでしまった彼は偶然に遭遇した事故での犠牲者の貧しい家族に全財産をすべてあげてしまう。
最終的に彼はその家族の娘ソーニャの自己犠牲愛に心を打たれ、自信の考えの誤りを知り自首し、この物語はエピローグのラスコーリニコフが刑務所に入れられてからの話で終了する。
つまり『罪と罰』とは簡単に言うと、主人公ラスコーリニコフの贖罪、人間回復の話なのである。
感想
まず、物語としては、主人公と警察の腹の内の探り合いのやり取りが非常に面白かった。
例えるならば、デスノートにおけるLとキラのやりとりに似ているように感じた。
いや、逆か。
デスノートが罪と罰に似ていると言うべきか…
まぁどっちでもいいけど。
そして、思想書として読むとタイトルの通り、罪と罰について考えさせられる。
つまり、冒頭で書いたように、人が犯した罪は赤の他人が裁き罰を与えてよいのか。
例えば学校で生徒が校内で悪さをしたとする。
この場合、その上の立場である人間、先生が生徒に対し、反省文を書かせる、というように罰を与えるのは何ら自然である。
同様にして会社での労働者の場合も同じであるだろう。
しかし、学校、会社といった小さな集団に属さない人間が犯した罪、または、どうなるのか。
そうして、同じ社会に属する人間が他の人間を罰してよいのかという疑問が生じるのだ。
そもそも罰とは、旧約聖書にあるように、人々は皆、モーセの十戒に従い、それを破った場合、天罰が下る、というようなのが元であろう。
これが、罰のイデアではないかと私は考える。
ちなみに、イデアとは、哲学者プラトンが唱えた考えたもので、万物が存在する理由である。
つまり分かりやすく言うと、そもそもイデアとは、万物の手本となる型であり、物というのはイデアという完全な型に従い、存在している。
ということは、イデアがなければ物は存在しえないという事なのである。
話を戻すと、罰の完全無欠な手本がなければ現在の刑罰はないことになり、これは神が罪人に対し、罰を与えた事の肯定を意味する。
そのようなわけで、今の刑罰は絶対に正しいとは言えなく、それは最早、罪を犯したらこうなるというように知らしめる、いわば見せしめの意が強いように思える。
しかし、そのようであってはいけない。
何故なら、同じ人間が人を長期間監禁したり、殺したりするのだから、これも罪であるからである。
次に罪人とは、精神を病み、行動を起こしてしまった人のことである。
というのも、人は生まれた時には精神を病んでいない(キリスト教的に言えば、すべての人が背負う原罪は、キリストが十字架によって償われた)からである。
なので、罪を犯した人間は、人権を犯していない人間と同じく扱われ、精神を正常な方へ直すために努めさせるべきである。
というような事を『罪と罰』を読んで考えました。
主人公ラスコーリニコフは一つの悪事は百の善行によって償われ、悪人を殺しても罪にならないという自信の思想から、高利貸しを殺そうと考え、試みたが、その場に居合わせた高利貸しの娘までも殺してしまう。
そして、ラスコーリニコフは悪人ではないその娘まで殺してしまったことを悔やみ良心の呵責に囚われる事となる。それにより気を病んでしまった彼は偶然に遭遇した事故での犠牲者の貧しい家族に全財産をすべてあげてしまう。
最終的に彼はその家族の娘ソーニャの自己犠牲愛に心を打たれ、自信の考えの誤りを知り自首し、この物語はエピローグのラスコーリニコフが刑務所に入れられてからの話で終了する。
つまり『罪と罰』とは簡単に言うと、主人公ラスコーリニコフの贖罪、人間回復の話なのである。
感想
まず、物語としては、主人公と警察の腹の内の探り合いのやり取りが非常に面白かった。
例えるならば、デスノートにおけるLとキラのやりとりに似ているように感じた。
いや、逆か。
デスノートが罪と罰に似ていると言うべきか…
まぁどっちでもいいけど。
そして、思想書として読むとタイトルの通り、罪と罰について考えさせられる。
つまり、冒頭で書いたように、人が犯した罪は赤の他人が裁き罰を与えてよいのか。
例えば学校で生徒が校内で悪さをしたとする。
この場合、その上の立場である人間、先生が生徒に対し、反省文を書かせる、というように罰を与えるのは何ら自然である。
同様にして会社での労働者の場合も同じであるだろう。
しかし、学校、会社といった小さな集団に属さない人間が犯した罪、または、どうなるのか。
そうして、同じ社会に属する人間が他の人間を罰してよいのかという疑問が生じるのだ。
そもそも罰とは、旧約聖書にあるように、人々は皆、モーセの十戒に従い、それを破った場合、天罰が下る、というようなのが元であろう。
これが、罰のイデアではないかと私は考える。
ちなみに、イデアとは、哲学者プラトンが唱えた考えたもので、万物が存在する理由である。
つまり分かりやすく言うと、そもそもイデアとは、万物の手本となる型であり、物というのはイデアという完全な型に従い、存在している。
ということは、イデアがなければ物は存在しえないという事なのである。
話を戻すと、罰の完全無欠な手本がなければ現在の刑罰はないことになり、これは神が罪人に対し、罰を与えた事の肯定を意味する。
そのようなわけで、今の刑罰は絶対に正しいとは言えなく、それは最早、罪を犯したらこうなるというように知らしめる、いわば見せしめの意が強いように思える。
しかし、そのようであってはいけない。
何故なら、同じ人間が人を長期間監禁したり、殺したりするのだから、これも罪であるからである。
次に罪人とは、精神を病み、行動を起こしてしまった人のことである。
というのも、人は生まれた時には精神を病んでいない(キリスト教的に言えば、すべての人が背負う原罪は、キリストが十字架によって償われた)からである。
なので、罪を犯した人間は、人権を犯していない人間と同じく扱われ、精神を正常な方へ直すために努めさせるべきである。
というような事を『罪と罰』を読んで考えました。
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